青春シンコペーション


第2章 キャッチされた僕(1)


鳥達の囀りが耳の奥で心地良く響いていた。清潔な石鹸の香りが鼻腔をくすぐってくる。
「ここは……?」
不意に目を開けた井倉はぼんやりと部屋の中を見回した。新しい布団とシーツ。ベッドも壁に掛けられた時計も木製で、繊細な植物の彫刻が施されていた。壁際にはクローゼットと小さな丸いテーブル。棚に飾られた花や人形がじっと好奇心いっぱいにこの新参者を見つめている。深い森の色をしたカーテンの隙間から外の光が差し込んでいた。時計の針は8時15分。ベッドの横に置かれた茶色いくまのぬいぐるみが、ちょこんと首を傾げてこちらを見ている。

「僕は一体……」
彼は半身を起こして軽く頭を振った。パジャマは少しだけ袖が短かった。しかし、シックな木目のその部屋はあたたかくてやさしい雰囲気に包まれているように思えた。
「そうだ。昨夜は確かハンス先生と……」
井倉は記憶を辿って考えた。二人でレストランに行き、電車に乗ったところまでは覚えている。が、そのあとのことがはっきりしない。
「ここはハンス先生の……?」
彼はベッドから起きてそっとカーテンを開けた。眩しい光がさっと部屋の中に広がった。

と、そこにノックの音が響いた。
「はい」
井倉が返事をするとドアが開いてハンスが顔を覗かせた。
「井倉君、もう起きましたか?」
彼は井倉の着替えを持って来て、ベッドの上に置いた。
「おはようございます、先生。あの……」
井倉はおどおどと挨拶した。
「おはようございます。まだお店が開いていないので、洋服は昨日君が着ていた物を洗って乾かしておきました。パジャマは僕のなので、少し小さかったです。よく眠れたらよかったのですけど……」
「はい。よく眠れました。すみません。僕、迷惑をおかけしてしまって……」

「着替えたら、食事にしましょう。朝はパンにしているんですけど、井倉君はそれでいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
「顔洗うならバスルームで……。ここを出てえーと……」
ハンスは少し考えてから笑って指で示した。
「こっちです。階段はあっち。支度が終わったら降りて来てください。僕は美樹ちゃんとお食事の用意をしてますから……」
そう言うとハンスはすぐに部屋を出て行った。
「あの、美樹ちゃんって……?」
井倉には心当たりがなかった。が、取り合えず言われた通りにするしかない。彼はハンスが持って来てくれた服に着替えるとベッドを整えて廊下に出た。

螺旋階段を降りて行くと広いリビングに明るい陽射しが射し込んでいた。暖色の絨毯が周囲にやさしい印象をもたらしている。華美になり過ぎない花や絵が各ポイントに置かれ、家全体のムードを品の良いものにしていた。
「ああ、井倉君、こっちです」
ハンスが手招きした。
「あ、はい」
井倉は彼と一緒にテーブルに着いた。テーブルの上には籠に入ったパンと瓶入りのジャムや蜂蜜。それから、厚切りのハムやチーズが盛られた皿が三人分置かれていた。
(ああ、きっと美樹ちゃんって人の分なんだな)
井倉が思ったその時。美樹がキッチンからやって来て言った。

「おはよう、昨夜はよく眠れたかしら?」
小柄で髪の長い彼女は少女のような雰囲気の女性だった。
「はい。ついさっきまでずっと眠っていました」
井倉が答えると彼女は微笑んで言った。
「飲み物は何にする? コーヒー、紅茶、それとも、ホットミルク? ココアもあるよ?」
「それじゃ、コーヒーを願いしてもいいですか?」
「OK。ハンスはいつものココアね?」
「はい。僕はそれにします」
「それじゃ、ちょっと待ってて」
彼女が行ってしまうと井倉が遠慮がちに訊いた。

「あの、彼女は?」
「ああ。美樹は僕のこれです」
ハンスが小指を立てて笑う。
「これって、あの、奥さんじゃなくて……?」
井倉がおどおどして言う。
「はい。ここは美樹ちゃんの家なんです。僕は早く彼女と結婚目指しているんですけど、まだ正式に許してもらえないので、今はまだこれです」
と、ハンスが再び小指を立てる。
「ハンス、また悪いこと覚えたのね?」
トレイに乗せたカップを持って来た美樹が言う。
「何が悪いですか?」
ハンスがきょとんとして訊く。
「これだなんて、ちょっとスラング的な表現なのよ。もう、そういった悪いことはすぐに覚えちゃうんだから……」
美樹は少しお姉さんのような口調で言った。

「はい。井倉君、どうぞ。お砂糖とミルクはどうする?」
「いえ、僕はブラックで結構です」
「じゃ、ハンスのはこれ。私はミルクティーにするね」
そう言うと美樹は自分の前にもカップを一つ置くと席に着いた。
「それじゃ、いただきましょう。井倉君も遠慮しないでどんどんお代わりしてね」
美樹が微笑して言った。
「はい。ありがとうございます」

食事は楽しく済んだ。美樹もハンスも如才なくさり気ない世間話で場を和ませてくれた。
「あの、僕、お手伝いします」
食べ終わった食器を片づけている美樹に井倉が言った。
「あら、いいわよ。ゆっくりしてて。大した量じゃないし、ハンスの相手をしていてくれると助かるんだけど……」
彼女がいたずらっぽく笑って言った。
「え? でも……」
戸惑っている井倉に彼女は続けて言った。
「10時になったら、あなたの着替えとか必要な物を買いに行きましょう」
「え? でも、僕……」

「ハンスはずっとあなたをここに置いておくつもりらしいから……」
「そんな……。できません。先生のお宅に置いてもらうなんて……。それに、ここは美樹さんのおうちだって……」
「そうよ。でも、ハンスがそう決めたんならそうしてもいいの。彼って強引だから……。きっと引かないと思うわ」
と、美樹は言って笑う。しかし、それは特に反対しているという訳でもなさそうだった。が、彼は困惑していた。
「でも、そんなご好意に甘える訳には……」
俯く井倉。

「本当に遠慮しなくていいのよ。もしかしたら、私達、あなたの力になれるかもしれないし……。少なくとも、ハンスはあなたの才能を買っているのよ。あなたがピアノを続けられるように協力したいって……。だから、当面の間だけでもここにいたらいい。あなたが独立して行けるようになるまでは……」
「美樹さん……」
彼女の好意に涙が溢れそうになった。しかし、甘えてはいけないのだと井倉は強く自分に言い聞かせる。
「ありがとうございます。お気持ちはとてもうれしいです。でも、僕はやっぱり……」
その時、背後からやって来たハンスが言った。
「いけません。君が何処かに行くことはこの僕が許しません」
「先生……」
「だって、僕が君を拾ったんですから……。拾った僕のものです」
「ハンス先生……」
井倉は困ったような顔をした。が、ハンスは真面目な表情で見つめている。美樹は黙って皿を洗っている。
「わかりました」
井倉はしゅんとして頷いた。

リビングの隅にはグランドピアノがあり、空いている時には、いつでも自由に弾いてもいいとハンスは言った。
(自由にと言われても……)
井倉は困惑するばかりだ。
「火曜日と金曜日の午後には子供達のレッスンをしています。そうだ。その時、君も一緒にやりましょう」
ハンスはうれしそうだった。が、井倉はどう答えたらよいのかわからずに彼の言うことを黙って聞いていた。ハンスは家の中を案内し、ペットの猫達にも会わせてくれた。

「へえ。可愛いですね」
白いふさふさとした毛で青い目をしているのがピッツァ。黒くて短い毛で緑色の目をしているのがリッツァという名前なのだという。
「井倉君も猫が好きですか?」
「はい。実家にいた頃には家でも飼っていたんですけど……」
そう言って彼は少し悲しそうな顔をした。
「どうかしましたか?」
ハンスが訊いた。
「いえ、何でもありません」
井倉は否定したが、その表情は強張っていた。

(僕は……捨てられたんだ。家族から……。捨て猫のように捨てられた……)
「井倉君……」
ハンスが心配そうに覗き込む。
「すみません。僕、誰にも心配されたくないのに……。誰にも迷惑を掛けたくないんです。なのに……」
涙が溢れた。
「いいんですよ。泣きたいなら泣いたっていいんです。何があったかはわかりませんけど、僕も美樹も無理強いはしませんから、もしも君が話せるようになったら聞かせてください」
(話せるようになったら……? 果たしてそんな日が本当に来るのだろうか)
井倉には到底信じることができなかった。が、それは案外早く訪れた。


取り合えず、気分転換にもなるからと二人に誘われるまま外に出た井倉に突然、男が絡んで来たのだ。
「やい、おまえ、井倉不動産の倅だな?」
柄の悪いチンピラ風の男だった。背後にはそいつの手下らしい男が二人控えている。
「親父は何処行きやがった?」
男は井倉の襟首を掴んで言った。
「し、知りません」
井倉は答えた。それは本当のことだった。それがわかるようなら、とっくに自分がそこにいる。問い詰めたいのは自分の方なのだ。

「しらばっくれんじゃねえ! 行き先くらい聞いてんだろうが? 言わねえとただじゃおかねえぞ」
「本当に何も知らないんだ。親父の奴が何をやらかしたのかも……」
「借金踏み倒して逃げちまったんだよ! てめえも奴の倅なら責任取って親父の分の借金払ってもらうからな!」
「そんな……!」
その顔面を殴りつけようとする男の拳を掴んで止めた者がいた。ハンスだ。

「何だ? てめえ。邪魔するとただじゃおかねえぞ」
男が凄む。背後の手下達もそれなりに拳を掲げてポーズを取っている。
「やめてください。この人達には関係がないんだ」
井倉がハンスと彼の背後にいる美樹を見て哀願する。が、男はにっと笑って美樹の方を見た。
「ふん。女の前だからって格好つけてんじゃねえよ。引っこんでな。痛い目を見たくないんならな」
睨みを聞かせて男が息巻く。周囲の人達が関わりたくないというように遠ざかって行った。
「放せよ」
ハンスが言った。
「これは僕のものなんだ。勝手に汚い手で触らないでくださいね」
「何だと! ふざけやがって!」
思わず井倉を放すとハンスに向かって殴り掛ろうとする男。その手をするりと避けてハンスは言った。

「おっと。暴力はいけません。ほら、小さな子供が怖がっちゃってるじゃないですか」
通りの向こうでは、確かに母親に連れられた子供がこちらを見て泣いていた。
「何なら、てめえらも泣かしてやろうか?」
男が肩を怒らせて迫る。
「いやだよ。こんなところで泣いたら恥ずかしいでしょう? それとも、あなたが平気なのだと言うなら僕は遠慮しませんけど……」
と、言ってハンスが微笑する。
「ふざけるな! このガキが……!」
男が逆上して叫ぶ。が、その声は丁度そこを通り掛ったゴミ収集車の音楽とアナウンスに消された。そして、車は数メートル先で停車すると収集場に出されている不燃物を回収し始めた。男は作業員の目を避けて建物の影にハンス達を連れ込んだ。

がさつで大柄な男に対して小柄なハンスではどう見ても不利だ。
「もういいです! やめてください! 先生!」
井倉が叫ぶ。
「よい訳ないでしょう? こういう人達にはきちんと教えてあげなければいけないんです。特に力はどっちが上なのかということをはっきりさせておかないとね」
「え?」
呆気に取られている井倉の前で、ハンスは笑った。
「そんな生意気な口が二度と利けないようにしてやる!」
男が拳を振るった。と、同時にハンスが図体のでかいその男の足をひっ掛けた。そして、バランスを崩した男の背中を手刀で一撃した。
「うげっ!」
男は無様につんのめって道路に転がった。

「野郎っ!」
それでも懲りずに起き上がり様に飛び掛かってくる男の腹部にハンスが拳を叩き込む。
「ぎゃっ……!」
男は3メートルも飛ばされて、丁度回収しようとしていた壊れたベビーカーの真上に落下した。
「うわっ」
その衝撃に思わず作業員が手を放す。周囲にあった不燃物の山が崩れる。
「ちょ、ちょっとあなた大丈夫ですか?」
作業員が尋ねる。が、男は潰れ掛けたベビーカーに挟まれてうんうんと唸るばかりだ。
「あ、兄貴っ!」
「大丈夫ですか?」
二人の手下が慌てて駆け付ける。

「畜生っ! あの野郎! ただじゃおかねえ!」
男は凄まじい形相で叫んだ。が、立ち上がろうとして腰を浮かした男が顔を歪めた。ぎしぎしとした金属音と布がこすれる音が響くだけで、男は一向に立ち上がって来なかった。
「兄貴……?」
不審そうな顔で手下が覗く。
「もしかして、兄貴……」
「くそっ! 腰がはまって動けねえ!」
男がもがく。手下二人と作業員が手を貸して何とか男の体を引っ張り出そうと試みるが無駄だった。
「痛えじゃねえか! 馬鹿野郎!」
無理をすれば曲がった金属が男の腹部に突き刺さりそうだ。

「こいつは無理だ。救急車を呼びましょう」
親切な作業員が言った。が、男が拒んだ。
「やめろ! 余計なことをするな! てめえで何とかする!」
男は叫んだ。
「そ、そうですよ。おれ達も手伝いますから……」
手下の一人が言った。周囲には何の騒ぎかと野次馬達が集まって来ている。
「見世物じゃねえぞ! 散れ!」
男が喚く。
「そうだ! 散れ!」
もう一人の手下も叫ぶ。が、声を荒げれば荒げるほど野次馬の数は増えて行く。
「ええい! 仕方がねえ! 兄貴、向こうへ行きましょう」
手下達は男を乗せたままベビーカーを押して人々を蹴散らし、通りの向こうへと駆け去った。

「ふふ。これで彼らも少しは懲りたでしょう」
ハンスが言った。
「せ、先生……」
井倉はただ驚愕するばかりだった。
「それじゃ、気を取り直して、早いとこお買い物を済ませちゃいましょう」
美樹も言った。
「あの、でも、僕……」
「いいのよ、気にしなくても……。よくあることなんだから……。でも、できれば事情をあなたの口から説明してくれる?」
美樹が言った。
「わかりました。お話しします」


そして、井倉はその日の午後には、二人にすべてを話していた。
「それじゃあ、まずはご両親と妹さんの安否を確かめて連絡を取れるようにしないとね」
話を聞き終えると美樹が言った。
「私、進ちゃんに相談してみる」
「あの……」
井倉がおろおろと何事かを言い掛けた。
「ああ、彼、私の同級生で探偵をしているの。彼ならきっと力を貸してくれると思うわ」
「でも、僕お金ないし……」
「そんなのあとでどうにでもなるわよ」
美樹はすっかりその気で席を立った。

「それじゃ、僕は黒木さんに連絡してみますね。事情を聞かずに退学にするなんて酷いもの」
ハンスも言った。
「黒木教授に……」
井倉は意識が遠くなるのを感じた。
「いいんです。もう……。お二人のご好意には感謝します。でも……僕はもう……」
「大丈夫。きっと僕が何とかします」
ハンスが井倉の肩を叩いて慰めた。
(でも……)
日頃から、いかなる事情があろうとも、自らが行った行為の結果がすべて今の自分に返って来るのだという黒木の信念を知っている井倉にとって、それはあまりにも恐ろしいことに思えた。


そして、夜。その黒木が訪ねて来た。厳つい顔が皿に厳つく引き攣っているのを見て、井倉は震え上がった。が、彼の顔を見ると教授は言った。
「井倉君、何故そうなる前にこの私に相談してくれなかったのかね?」
「そ、それは……」
あまりに恐ろしいことに思えたのでとは言えそうになかった。てっきり怒鳴りつけられるかと思ったのに、教授はやさしく肩を叩いて言った。
「何にしろ、君が無事でよかった」
「え?」
「よかったな。ハンス先生に救われて……」
「黒木先生……」
井倉は思わず耳を疑った。次の瞬間。黒木はハンスの方を見て言った。
「本当にありがとうございます。不肖の弟子が迷惑をお掛けしまして……」
と頭を下げた。プライドの高い教授が自分のために頭を下げてくれている。それを見た時、井倉の胸は熱くなった。

「いいんですよ。たまたま通り掛かっただけなのですから……。それより、大学の方はどうしましたか?」
ハンスが訊いた。
「それが……どうもこうも一度退学処理した者の学籍は戻せないの一点張りでして……。しかも、親が犯罪に関わっているような学生がいては大学の名誉が汚される、というのです」
黒木は苦渋に満ちた顔で告げた。
「そうですか。わかりました。もとから、そんなに期待していなかったのですが、思った通り、あの理事長じゃね。あの学校も先が知れてるな」
ハンスは天使のような微笑を浮かべて辛辣な言葉を口にした。これには黒木も苦笑するしかない。

「でも、安心してください。井倉君は僕が育てます」
ハンスが言った。
「別にピアニストになるのに音大が必ずしも必要じゃないのだし、そんなところにいるより、僕のところにいる方がよほどましだ。いいですね? 黒木さん」
「ええ。彼のことはお任せします。どうぞ、存分にしごいてやってください」
再び黒木が頭を下げる。
「こら、おまえも頭を下げんか! ハンス先生のお宅に置いてもらった上、直々にレッスンをしていただけるなんて恵まれ過ぎだぞ」
教授から言われ、井倉は恐縮しながら頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いします」

こうして、井倉はハンスの家に同居することになった。
「それにしても、何て羨ましい。私が同居させていただきたいくらいだ」
黒木は本当に羨望の眼差しで井倉を見詰めた。
「さあ、そんなところで立ち話をしてないでこちらに来てお茶でもどうぞ」
美樹が呼んだ。
「ありがとうございます」
黒木が言うとあとに続いてハンスと井倉がリビングに向かった。
「井倉、本当によかったな」
ソファーに掛けると黒木が言った。その表情は確かに笑っているように見えた。